こんにちは、桐生真也です。
日常的に”普通”という言葉をよく耳にします。
それはいい意味だったり、悪い意味だったり。
仕事中の会話では、「普通これくらいできるでしょ」と嫌みのように使われたりしています。
ラーメンの麺の硬さを表す時は、「やわらかい・ふつう・かため」といった風に使われていますね。
何か凄いことをやった人が、「これくらい普通だよ」など謙遜で使われることもあります。
ただ、どの普通という言葉も曖昧で、それって普通なのかなと疑問に感じることも少なくありません。
普通って何なのでしょう、何を基準にして普通なのでしょうか。
普通であることって何なのでしょう、そうでなければいけませんか?
今回は”普通”について考えていきたいと思います。
拙い文章ですがご容赦ください。
気ままにお付き合いいただけたら幸いです。
普通であることにこだわる人達

普通とは、広く一般的であり、ありふれていて、どこにでもあり、他と比べて特別なことがないこと。
良いところも悪いところもなく、平凡で平均的で、可もなく不可もなく、こんな言葉が並んでいくのが普通という言葉。
言葉の意味としては、これが普通の基準。
私自身はこの言葉の並びにやや悪い印象を受けますが、皆さんはどうでしょうか。
平均的であることを喜ぶ人もいれば、私と同じく嫌なイメージを持つ人もいるでしょう。
この印象の違いは、自尊心の表れなのではと思います。
人よりも劣っていることが悔しかったり、人よりも優れていたいと願う人ほど、低く見られることを嫌います。
少なくとも普通であるということは、多くの人よりは劣っているわけではないということ。
誰かに自分の行動や思考を否定された時にこれくらい普通でしょと言う人は、こういった意識が潜在的に強いのではないでしょうか。
普通以上であることにこだわる人は多く見かけますし、そういう人ほど普通という言葉も多く使っています。
9段階で自分を評価するなら、そういう人たちは6とか7だと自分を評価しています。
自分は人よりも優れていないが決して劣っていないと、自分を納得させられるボーダーラインなのでしょう。
そして多くの場合、自分よりも劣っているとみなした相手に対し「普通〇〇だから」といった言葉も多用するように思います。
自尊心を守るための自己防衛的行動ではあると思いますが、何も人を貶すことはないだろうとは個人的に感じます。
貶すことでしか自尊心を守れないのは、自分への自信の無さの表れではないかと思いますし。
誰かが何かをできないのであれば、できるように指導してあげる方が結果的に楽なのに。
普通以上であることって、そんなに特別なことなのでしょうか。
知っていたり知らなかったり、できたりできなかったりすることも普通なのではないのですか?
自尊心を守ることは大切なことではありますが、他人を貶すことで守るのではなく、自分はしっかりしていると自信を持てるくらい自分を認めてあげてほしいと思います。
いつも普通以上であろうと意識し続けていたら、きっと心も疲れてしまいますよ。
普通に対する嫌悪感

私自身は、普通という言葉にあまり好ましい感情は抱きません。
普段から身の回りで普通という言葉が悪い意味で使われているからというのもありますし、普通という言葉で表現されると、結局程度の判断がつかないからです。
更に言えば、普通とされた基準を自分が満たしていなかった時、少し落ち込みます。
誰にとっての普通ですかと、そう疑問に思うのです。
少なくとも私はその普通と言う人の基準を知らなければ、その事柄の平均さえわかりません。
誰かに対してそれくらい知っているのが普通とか言う人にも、言われてる側にとっては知らないのが普通なのではないかと感じます。
そしてどこまで知っているのが普通で、知らなくても普通と言われることは何なのか、その基準は一体何処にあるのか。
誰かの定めた普通に応えることは、途方もなく難しいことではないかと思うのです。
コンプレックスに関わるような事柄でも、普通というラインを定められてしまった時、そこに満たなかったら余計に辛くなります。
生まれ持ったものや特徴だけで普通から外される。
自分が普通ではないと自覚させられた時、その人は一生その傷を抱えていくことになってしまう。
自分にとっては当たり前のことが、一般的な基準から外れているぞと否定される。
普通という言葉には、そういった側面も存在します。
ぼんやりと曖昧な言葉なのに、他人の基準を押し付けられるような圧迫感。
普通という基準は、自分自身で立ち位置を把握するためのものであって、他人から宣告されることではないと思います。
指標としての”普通”はあるべきでしょう、多くの人にとってそれが解りやすいのですから。
普通という表現の汎用性の高さは理解していますし、そう表現するしかないこともあるでしょう。
普通に美味しいとか、普通に凄いよねといった使われ方をしているのもしっていますし、なんとなく意味は伝わります。
ただ誰かの努力であったり、頑張りに対して”普通だね”と評価するのは配慮が足りないのではないかとも思います。
普通という言葉には、個性を消し去ってしまう効果があるのです。
勉強が苦手な人が一生懸命に努力して勉強しても、それが普通と言われただけでその人の頑張ろうと奮起した気持ちが否定されてしまう。
その人にとってはその普通に届くことさえ難しい、それでも懸命に努力した、しかしその個人の苦労さえ普通という言葉に埋もれてしまう。
人と関わって生きていく上で普通にできなければならないこと、普通に知っておかなければならないことは確かに多いです。
だからこそそれぞれが適応する為に努力し、身に付け、学んでいく。
それを普通でしょうという一言で片づけられては、一生懸命頑張った人には耐えられません。
普通という言葉が相手にどのような意味を与えてしまうのか、もう少し吟味して使ってみるべきだと思います。
あなたが感じる自然なことが普通

普通とは何なのか。
それは個人が自然でいられることではないかと思いました。
一人の人間がこれまで知りえたこと、経験したこと、それらが複雑に重なって構築されたその人にとっての現実。
人生そのものと言い換えてもいいかもしれません。
自分だけの現実が普通であり、他人とその現実が重なることはあっても、全く同じは在りえない。
他人が持つ普通を押し付けられることは、その現実に対する侵略に等しい、不快感を覚えるのも当然です。
対話や環境に対する適応で常に変化し、変わりゆくもの。
物事を受け入れるのが遅い人ほど、その変化は非常に緩やかです。
人によってそのペースは全然違います、カテゴリーによっても違いがあるでしょう。
その速度だって個性であり、尊重すべきものです。
どうしても早く環境に適応しなければならない場面も多いのは事実です。
だからもしも上手く適応できなかったり、難しそうにしている人がいるのであれば、こんな普通なこともできないのかと否定するのではなく、変化を加速させる手助けをしてあげてほしいのです。
緩やかでも変化しようとしている気持ちに寄り添って、一緒に歩いてあげてほしい。
場所や状況によって、普通は変わっていく。
誰かの普通に適応することも時に必要ではありますが、無理をすれば自分の現実が崩れてしまいます。
少しずつ受け入れたり、知ったり、経験したり。
そうしていつか、自分にとっての普通になっていくこと、これが大事なのではないかと思います。
ぼんやりとして曖昧なままで、その人にしかわからないその普通を、お互いに尊重していきたいですね。
それでは今回はこのあたりで。
あなたの大切な時間で読んでいただき、ありがとうございました。
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