【優しさと甘さ】優しさについて考えてみた

考え方

こんにちは、桐生真也です。

子供の頃、多くの大人達から人に優しくしなさいと教えられてきました。

その頃は人が嫌がることはしないとか、人助けとかそういうことだと思っていました。

もちろんそれも一つの答えです、ただもう少しだけ深く考えてみようかと思います。

優しさとは何なのか、どうすることがいいのか。

拙い文章ですがご容赦ください。

気ままにお付き合いいただけたら幸いです。

色々な優しさについて考えてみる

人に親切にする

私が子供の頃に考えていた優しさと言うと、真っ先に考えるのはこれでした。

困っているのだから、助けてあげるのは優しさなんだと。

でも何だかちょっとそれは違うのではないかなと、最近では思います。

例えば電車でご老人が乗車してきたから席を譲ろうとしたら、年寄扱いするなと怒られることがありますね。

私はこの行動は優しい行動だと感じますし、きっと周りで見ていた人も優しいだとか親切だと感じることでしょう。

ただ相手のご老人はそうではなかった。

優しさではなく、何かの嫌味に感じてしまったのでしょう、プライドを傷つけてしまったのかもしれません。

もちろん嬉しそうに感謝されながら譲ることだってあります、むしろそういう反応の方が多いと思います。

同じことをしているのに、結果は大きく違います。

多くの人にとって優しいとされる行動は共通しているけど、誰にでもそれが当てはまるとは限らない。

困っている人を助けることは優しいことだけれど、それだけが優しいとされる理由ではないのでしょうね。

困っていたら助ける

これも優しいと言われる行動の代表的なものだと思います。

困っている人を見たらできれば助けてあげたい、そう感じて行動するのは素敵なことだと思います。

実際に助けてもらえた人は感謝するでしょう、それによって解決する問題もあるはずです。

しかし以前見たドラマでこんなシーンがありました。

ウイルスによって終わってしまった世界で、主人公は生き残った人達のリーダーになりました。

主人公に助けを求めてやって来た人々を快く受け入れて、グループの規模は大きくなっていきます。

主人公は人々を助け、世話をして、人々は主人公に感謝する。

とても優しい主人公ですよね、平和な世の中であっても簡単ではないことをしているのですから。

誰かのために頑張り努力する姿は、優しい英雄という感じでした。

しかしやがて命の危機が迫ってきた時に、助けられた人達は口を揃えてこう言うのです。

「助けてくれよ、あんたならどうにかしてくれるだろ?」

助けてもらえることを当然のこととして、むしろそれを要求するようになっていたのです。

主人公は手に余る状況にそれでも救おうとしますが、多くは助けることができませんでした。

そして生き残った人々により、お前のせいだと批難されるのです。

似たような状況は、他の多くの作品でも見ることがあります。

優しく感謝される存在だった誰かが、その相手から最終的に批難される。

私は、主人公は優しかったのと同時に、甘かったのではないかと思いました。

甘さは、優しさの次の段階なのではないかと。

優しくしすぎてしまった、助けすぎてしまったがために、相手から自発的に動こうという気持ちを失わせて、餌を待つ雛鳥のような状態にしてしまった。

まさに甘い毒のように、ただ求めるだけの存在に変えてしまう。

この話はフィクションですが、現実にだって起こりえます。

宿題が終わっていないからと手伝ってあげたら、次からも当たり前のように当てにしてくる。

個人の善意で助けてあげたら、同じ所属の全員にも同じことを要求してくる。

相手のできる範囲のことはまで助けてしまうのは、優しさではなく甘さになってしまうのでしょう。

甘くされた人は、その甘さから抜け出せなくなる。

本当に助けを必要としているのか、助けるべきなのかを見極めなければ、優しさでは済まなくなってしまうということなのかもしれません。

厳しく接する

時には厳しくすることも優しさだと言う人もいます。

先ほどの優しさも過ぎれば甘さに変わることがあるからこそ、確かにそうかもしれないと感じます。

誰かを頼ることは悪いことではありません、しかし当てにするのは甘えなのではないかと思います。

頼るというのは、自分では達成が困難なことを、誰かに助けてもらいながら自分で頑張ること。

当てにするというのは、そもそも自分ではやりたくない、誰かに丸投げしてしまいたいことだと思うのです。

その人の自発的な努力を後押しする、人を当てにしようとする気持ちに待ったをかける、そういう意味の厳しさなのではないでしょうか。

当てにすることに慣れてしまうと、大人になってもそれは抜けません。

困ったら誰かにすぐに助けを求めてしまう、困難に対して頑張る気持ちが弱くなってしまう。

できないことは誰かがやってくれる、そう無意識に考えてしまう人は、きっと一人ではほとんど何もできません。

そうなってしまわないために、目の前の困難にまずは立ち向かう経験をさせる。

相手のことを思う優しさがあるからこそ、あえて厳しく接するのです。

ですがきっと、助けてもらえなかった人は厳しくした人を嫌だと感じるのでしょう。

実際自分が子供の頃に自分でやりなさいと親に言われると、なんだよやってくれたっていいだろうと心の中で悪態をついていたものです。

第三者からしてみてみれば、厳しさも優しさだと気づくでしょう。

ですが厳しくされたら、優しいとは感じない。

優しいとされることなのに、これも少し違うのでしょうか。

優しさは感謝の気持ち

優しいと言われることなのに、それをされた側からは感謝とは違った結果になることがある。

共通していることは何か、自分なりに考えてみました。

私の結論として、優しさとは与えるのではなく受け取るものだと思います。

誰かを助けたり、親切にしたり、笑顔にしたり、気遣ったり。

そのどれもが優しいと表現されるのに、それをしている人自身は、きっと優しくしようと思ってやっているわけではありません。

相手のことを大切に想ったり、喜ばせたかったり、苦労を軽減してあげたいという純粋な気持ちです。

優しいと表現しているのは、いつだって受け手側なんです。

何かをしてもらって嬉しかったから、感謝の気持ちを抱いたからこそ、優しい人だって思えるんです。

優しいと言われる人達は、何かを得たくてやっているわけではありません。

中にはそうすることで自己肯定感や満足感を得ることができると感じている人もいるでしょうけれど、それでも優しくした相手から何かを得ようとはしていません。

優しい人と見られるための方法として打算をもって何かをしている人も、根本的に優しいからこそその行動を思いつくし、実行できるのではないでしょうか。

優しいことをしたのに嫌味を言われたり、反感を買ってしまうのも、受け手がその気持ちに気づいていない、あるいは知ろうとしていないからでしょう。

特にあえて厳しく接するなんてことは、様々な経験をして、甘さと優しさは違うことを理解し、大人になったからこそその真意に気づき、後になって感謝するのですから。

厳しくされている時なんて、今助けてほしいのに何でそんなことを言うのかと思うのは当然です。

こんなに困っているのにどうして助けてくれないんだって。

そう感じていることも十分理解していて、それでも安易に助けずに側で見守る。

優しくなくして、どうしてそんな選択をできましょうか。

何も思わない相手であれば、そもそも助けもしないし結果にも興味がないでしょう。

大切に思ってくれているからこそ、敵意や嫌悪を向けられながらも側で見守れるのです。

その想いに気づくことができた時、時間も場所も超えて気持ちは繋がって、厳しさが優しさに変わるのは素敵だと思います。

さいごに

自分なりに優しさというものを考えてみて、自分の今までの行動は優しさだったのか、甘さだったのか、厳しさだったのかも思い返してみました。

ただ最後に思ったのは、人に親切にしたり、気遣ったり、助けたり、そういったことをあれこれ考えながらするのは違うなということでした。

自分の中から生じた純粋な気持ちに素直になって、目の前の誰かのためになりたい。

その気持ちに自ら水を差すのは、やっぱり勿体ないなと思うのです。

私の考え方は間違っているかもしれません。

でももしこれを読んでいるあなたにも同じような気持ちがあるのであれば、どうか素直に気持ちのままに誰かを助けてあげてください。

それが甘さになってしまうなら、その後で一緒に努力していけばいいのです。

協力すること、支え合うことをお互いに感じていれば、それは当てにするのではなく信頼に変わりますから。

あなたのその優しさは、間違いなんかであるはずがないのですから。

そして誰かに助けてもらった人も、気遣ってもらった人も。

心の中に感じた温もりは、誰かの優しさがもたらしてくれたものです。

どうか伝えてください、ありがとうって。

言葉にしてもいいですし、恥ずかしいようなら手紙やメールだっていいんです。

伝えてあげれば、二人はとっても大切な絆で繋がれます。

大切にしてくれた人のことを、大切にしてあげてください。

それはきっと、優しい相手にも伝わりますから。

それでは今回はこのあたりで。

あなたの大切な時間で読んでいただき、ありがとうございました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました