【匿名と攻撃性】人が最も残酷になる瞬間、そうならないために

考え方

こんにちは、桐生真也です。

あなたは誰かに対して面と向かって酷いことを言えますか?

目の前にその人がいても、真っ向から批判できますか?

恐らくはしないと思います、反撃されるのが怖いから。

言い返されたら嫌だから、相手がどんな危害を加えてくるかわからないから。

当然ですよね、誰だって安全である方がいいんです。

だからこそインターネットは恐ろしい。

不特定多数の誰かが、不特定多数の誰かをいくらでも攻撃できてしまう。

安全な場所から、無慈悲に、容赦なく。

今回はそういった人の悪意についてお話したいと思います。

拙い文章ですがご容赦ください。

気ままにお付き合いいただけたら幸いです。

匿名性に守られた悪意

インターネットでは大抵の場合、自身の素性を相手に知られることはありません。

匿名性が確保されていて、名前や性別さえも不確かです。

寧ろそういった情報を漏らさないように徹底することが推奨されていますし、それは確かに必要なことです、悪用される心配もありますから。

ですがその匿名性こそが、現代では攻撃の為の盾となっているのです。

著名人が何かの不祥事や問題を起こした時、必ずそれを批判する人がいます。

誰かが嬉しいことを綴った時に、それを台無しにするような酷いことを書き込む人がいる。

相手が目の前にいないから、自分が誰かは知られないから。

自分に直接の危害は加えられないからと、安全な場所から一方的に攻撃することができてしまう。

街中で大騒ぎしている若者がいて嫌だなと思っても、注意しには行かないでしょう?

陰口だって同じです、相手が目の前にいないという安全地帯だからこそ、平然と酷いことも悪意さえ口にできるのです。

自分の意見や気持ちが正当なものであるなら、どうして直接伝えないのでしょうか。

その意見が、気持ちが、自分勝手な言い分だと、心のどこかで解っているから言えないのではないでしょうか。

或いはただの嫌味であったり、僻みであると自分でわかっているから。

否定的な意見というのは、時として必要です。

誰も彼もが肯定的では一方向からしか物事が見えていないことになりますし、改善の余地もないということになってしまいます。

ですが、それは議論をするために必要なのであって、ただ相手を否定するだけでは傷つけているだけです。

批判することも、それは関係者がするべきであって、不特定多数の誰かがするべきこととは思えません。

目の前で知らない二人が問題を抱えていたとして、それを横から無関係の人が口出しするのは不自然だと思いませんか?

同じことをされたら、お前には関係ないだろうと思いませんか?

こういった行為に及ぶ人達は、日頃抑圧された攻撃性を、匿名性を盾にして弱い者にぶつけているだけです。

いじめっ子と何も変わりません。

そんな悪意を文字にして、それを読んだ誰かも同じように批判する。

一つの集団として意見を同じくすることで更に匿名性が増して、悪意はどんどんエスカレートしていく。

言うのは勝手、誰もが言っている、それはやっていいという免罪符にはなりません。

集団心理は人の特徴としてありますが、だから仕方ないではないのです。

隣人の顔も名前も知らないことさえ珍しくない現代で、当事者の問題に口を挟む理由は何処にもないでしょう。

自分の行動も発言にも責任が伴うことに気付かないフリをしないよう、意識することが大切なのだと思います。

あちこちにいる正義の執行者

残酷な人間とはどんな人を思い浮かべますか?

マフィアのボスでしょうか、大量殺人鬼でしょうか。

確かにそういった人達も残酷なことはします、特に恐ろしい人達だとは思います。

単純に考えるとそうだと思いますし、非常にわかりやすいですよね。

ただ私は思います。

自分が正義であると信じ切っている人が一番残酷だと

相手は悪いことをしたのだから、責められて当然だ。

悪い人を責めているのだから、自分が行っていることは正しい行いだ。

悪を裁く自分は間違っているはずがない。

自分が正しいことをしていると思っている人は、どこまでも残酷になれます。

だって正しいのですから、その行いを寧ろ皆もするべきだと思っているのですから。

正当性がある、正しい、正義。

これほどに悪意や理不尽さえも覆い隠してしまう免罪符は他にないと思います。

誰かを裁くのは法律であり国です、人ではありません。

裁判官でさえ、どの法律に関係するのかを判断しているだけで、罰を与える立場ではありません。

裁判で下された結果をもとに、検察官がその権限でもって執行するのが秩序であると言えます。

法律を犯した人のニュースが流れる度に、インターネットではその人に対しての誹謗中傷や重罪にすべきなどといった意見が飛び交っています。

そう思うのは自由ですが、わざわざ文字に起こしてまでインターネットで書くことでしょうか?

その人はあなたに何かしましたか?あなたは被害を受けたのでしょうか?

私は非難する意見を見る度にそう感じます、そういうこと書いているけどあなたには別に関係のない話ではないのですかと。

誰かが違法薬物をやったからって、あなたの人生にどんな影響がありますか?

関係のないその他大勢が、どうしてそこまで騒ぎ立てるのでしょう。

テレビやインターネットで、大勢で一方的に、言葉の暴力をいつまでも浴びせ続ける。

これほど残酷なことってありますか?

何処かで誰かが法律や倫理に背く行為をしただけです、責め立てる人々が正義になったわけではないのに。

被害者でも何でもない人々が、まるで正しいことをしているかのように振る舞う。

こういった風潮が当たり前のように蔓延っている、匿名性や集団心理の恐さが感じられる瞬間です。

炎上などとよく表現されますが、もはや放火ですよね。

悪いことをした、不適切なことを言った、それだけのことでその人の家に火をつけに大勢が押しかける、そんな場面がイメージできてしまいます。

匿名性を伴ったまま振りかざす正義のなんと胡散臭いことでしょう。

その正義でさえも、独善的な思い込みなのですから。

そんな思い込みから繰り出される正義の言葉の、なんと切れ味を鋭いことでしょう。

人の心を容赦なくズタズタに切り裂き、実生活さえも脅かし、それだけ残酷なことをしたにもかかわらず罪悪感さえ抱かず、興味がなくなれば忘れてしまう。

こんなことを平然と行う人のどこに正義があるのか。

気が付いたらその独善の仲間入りをしていたなんてことがないように、どうか冷静に考えてみてほしいのです。

自分がされて嫌なことはしない

「自分が嫌なことを人にしてはいけない。」「自分がされて嬉しいことを人にしてあげなさい。」

私は子供の頃に両親からこう教わりました、今は自分の子供にも同じように教えています。

一つの真理ではないかと思います。

人として生きていく中で、とても大切なことを教えてくれている言葉です。

誰かを批難したり、否定したり。

そういうことをする前に、少し考えてみてほしいのです。

もしも自分が逆の立場で同じことをされた時、あなたは嫌な気持ちにならないかと。

自分が楽しかった思い出を下らないだとか言われて踏みにじられて、気分がいい人は極々一部の方々だけでしょう。

もちろん正当な理由での抗議や主張まで思いとどまる必要はありません。

しかし批難や否定といったことは、必ずしもする必要がある行為とは言えませんよね。

どちらかと言えばそれらの行為は、自分が満足したいから、気に食わないからする行為であって、自己満足の行為です。

自己満足の為の批難など正当性の欠片もないのですから。

もしも許せないことをしている人がいたのなら、距離を取ればいいのです。

テレビや動画で気に入らないこと、嫌なことを放送していたなら、見なければいいのです。

近寄らない、関わらない、見ない、聞かない、触れない。

嫌なことや不快なことへの対処法なんていくらでもあります、それらを選ばずにむしろ攻撃しに行くなど徒労でしかありません。

臭い物に蓋をするということわざもあります、自分に害が及ばないようにして距離を取るのが無難です。

誰かが悪いことをしたとしても、周りが騒ぎ立てて批難して、罰を大きくする権利なんてありません。

相手と同じ立場だったらどう感じるか、それを今一度考えてみてほしいのです。

それでは今回はこのあたりで。

あなたの大切な時間で読んでいただき、ありがとうございました。

Radiotalkで音声配信もしていますので、興味がある方はぜひこちらも聴いてみてくださいね。

番組 #真也のFeelingNight #Radiotalk https://radiotalk.jp/program/155656

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