こんにちは、桐生真也です。
お祝いというわけではありませんが、この記事を以って100件目の記事となりました。
最初の目標としていた件数にどうにかこうにか到達することができました、ひとえに読んでくださっている皆さんのお陰です。
半年以上かかってしまいましたし、投稿のペースもどんどん落ちてしまって、ブログを運営している他の多くの方々と比べても明らかに遅く、また拙い文章だったことでしょう。
これからもきっと大きく成長はしませんが、少しずつでも、一歩ずつ記事をしたためていきたいと思っています。
そして今回、どんな内容にしようかずっと考えていました。
記念するほどではないにせよ、目標到達の一つの節目ではありますし、何を書いてみようかと。
とはいえ先程も申し上げた通り、私は大きく成長しているわけではありません。
突然文才に目覚めることもありませんし、都合よく話のネタが空から降ってくることもございません。
私は多くを持っていることもなく、何かに秀でていることもない。
私より優れた人は星の数ほどいて、私はこれまでに何か成し遂げたわけでもない。
しかしながら、そんな私でも今日まで生きてきて、色々なことを経験して学んで、失敗して後悔して、少しずつ積み重ねてきた日々はある。
特別なものではないけれど、他の誰も持っていない私だけの日々がある。
それらを思い返してみながら、自分自身に気になる感情を向けてみよう。
誰も興味はないかもしれないけれど、この節目に至った今の自分を振り返ってみようと、そう思ったのです。
今回は、今日までの自分の中にある考え方や思いをお伝えしていこうかと思います。
相変わらず拙い文章ですがご容赦ください。
気ままにお付き合いいただけたら幸いです。
批判も否定も自分に跳ね返る
多くの場合、人は自らの考えを信じ、他の誤りを否定したり正そうとする生き物だと思います。
自分は間違ってなどいないし、ましてや否定される謂れなどないと。
私だってそう思います。
特に自分が知っていることや経験したことこそ強く自分の考えを信じてしまいますし、違う意見を言われても自分の意見や考えが間違っているとは思えないものです。
挙句の果てに否定までされてしまったら、心の中は凪いだ海のようではいられず、グラグラと沸き立つ湯のようになっていることでしょう。
お前に何がわかるんだ、こうすることで成功してきたんだ、私の方がよく知っているんだと。
程度の差はあれど、多くの人がこういった感情を胸に抱いたことがあるかと思いますし、実際に口に出して相手を否定する人もとても多く感じます。
特に昨今のインターネット社会においてはその匿名性も相まって、こういった側面が強く出ていると思います。
自分の方が優れていると証明したい、そういう自分であろうとする承認欲求のようなものではないかと私は思っています。
相手の考えを否定し、自分の考えが通った時は気持ちがいいものです。
優秀であること、場合によっては正義を認められたと思えるのですから。
承認欲求とは麻薬と同じようなもの。
だからこそその気持ちよさを知ってしまったら、人は繰り返すようになるでしょう。
人を否定したり批判する人の多くは、そういったひとときの勝利の心地よさに心奪われた人達なのだろうと思います。
何が理由でそうなってしまったのか、それは知りようがありませんし、本人だってきっと意識はしていません。
そういう方法でしか自分を認めてあげられなかったのかもしれませんし、そうしなければ自分を保てない環境にいたのかもしれません。
ですが、誰かを否定したり、批判して裁くということは、同じように自分もそうされる可能性があるということ。
誰かに否定されたり批判されることは、当然ですが気持ちのいいことではありません。
そういう時、心の中にあるのはその知識や考え方が正しいかどうかではなく、単純な相手に対する反感です。
最早論点などどうでもよく、ただ気分が悪いだけ。
例え否定した側の意見が一般的正しいものだとしても、そこには禍根が残ります。
そんな些細なことで、人の心は簡単に離れていってしまいます。
そして同じように、誰かに否定され、批判されることでしょう。
自己中心的な人ほど他人を否定したり、自分が正しいとして批判し裁こうとします。
コロナ禍の時のマスクの着用などがそうでした。
マスクの着用をしている自分こそが絶対的に正しいのだと疑わず、そうでない人たちを遠慮なく批判し裁こうとする。
自分は皆のためを思って言っているんだ、自分は間違っていない、正しいのは私たちだ。
そんな感情が形として見えそうなほどに、当時は秩序の番人のように振る舞っている人が多かったように思えます。
間違ってはいないでしょう、マスクの着用を推奨されていたのも事実です。
ですがそもそもマスクの着用をしなかったからと言って、何かに違反しているわけでもなく、法を犯してもいません。
そういう人がいたなら、距離を取ればいいだけの話です、離れればそれで済みます。
ですがそうせずに批判するために近づいていくのは、正義の名のもとに自分の正しさを証明したかっただけなのではないかと思うのです。
批判や否定をするのではなく、そういう考え方もあるのだと共感し、相手の立場であればどうするか考えてみて、どうしても受け入れられなければ距離をとる。
否定や批判、裁きを下そうとするのであれば、それはやがて自分にも帰ってくると理解する。
これを少しでも意識して実行することが、僅かでも人間関係を悪化させない方法なのではないかと思います。
興味こそが最高のチャンス
このブログのテーマにもなっていますが、興味こそが最高のチャンスであると私は思います。
大きな一歩を踏み出すような覚悟などではなくて、日常のちょっとした疑問でいいのです。
その疑問こそが、新しい知識や経験を知るチャンスであり、モチベーションに繋がることなのですから。
私は昔から物覚えは非常に悪いです、特に人の名前を覚えるのが苦手でした。
ですが興味のあることとなると、簡単に人名も覚えられるし、細かなところまで覚えているものです。
それくらい興味を持つということは素晴らしい切っ掛けであり、モチベーションであり、チャンスなのだと思います。
でも調べ物くらいなら少しの手間やコストで済みますが、新しい世界に踏み出そうとすることは容易なことではありません。
時間や手間だけでなく、お金や環境、タイミングというものも関わってくるでしょう。
私もこれまで何度も興味を持ちながら諦めてしまったり、挑戦できなかったことがあります。
ジムに通ってみたかったけど、自宅から遠すぎて断念したり。
行ってみたい場所があったけれど、自由な時間がなくて想像するだけだったり。
小説を書いていたけれど、段々と書いている時間がなくなって止めてしまったり。
きっとこの記事を読んでいる人も、数えきれないほど諦めてきた経験があることでしょう。
ただやはり、できることならば諦めたくはないのです。
できることならば、興味の赴くままに挑戦してみたいのです。
だからこそ、興味を持つことだけは止めてはいけないのだと思います。
調べることだけならば、今の世の中なら簡単にできますし、答えもすぐに集まることでしょう。
このブログだってそうです、偶然知りえた知識や興味をできることなら踏み出して挑戦してほしいという願いがあります。
それは私自身に対してでもあり、読者の方々に対してでもあります。
世の中にはそれこそ膨大に知らないことがある、経験できることがある、行くことができる場所がある、まだ感じたことのない感情がある。
或いはその中に、自分にとって生涯の情熱を注げるようなものがあるかもしれない。
多くの場合、それらの興味は想像するだけで終わってしまうことでしょう。
調べることはできても、その先へは進めないことだってたくさんあることでしょう。
ですが興味を持ったことは忘れないでほしい。
その何かは、繰り返すような日々の中で間違いなく貴方の心を奪ったものであり、いつも通りの景色の中で他よりも輝いて見えたものなのですから。
そんな素敵な出会いを興味というのです、その出会いを大切にしてください。
どんなものに興味を持つことも自由です、それは貴方自身の素直な気持ちなのですから。
さいごに
いつもお仕事を頑張っている皆様、嫌なことや辛いことがたくさんありますよね。
家で家事を頑張っている皆様、とっても大切な縁の下の力持ちです。
学校で勉強を頑張っている学生さん、勉強は大変ですけれど無駄にはなりませんよ。
皆さんの努力が無駄なんてことは決してありませんし、必ず誰かの役に立っています。
だからこそたまには褒めてもらいたいけれど、日常の中ではそういった言葉はなかなか貰えませんよね。
当たり前のことだと誰もが思ってしまって、感謝の気持ちを忘れてしまいがちですよね。
本当に毎日お疲れ様です、凄く感謝しているんです。
それぞれにたくさんの苦労があると思います、想像することしかできませんけれど、皆さんが一生懸命頑張っていることはわかります。
だから、いつもありがとうございます。
大変な中で、このブログを読んでくれてありがとうございます。
これからも少しずつですが、誰かの興味を満たせるような切っ掛けになれる、誰かの苦しい気持ちが軽くなるような言葉を紡げる、そんなブログとして頑張って続けていこうかと思います。
どうかお時間があれば、見守っていてくださいませ。
それでは今回はこのあたりで。
あなたの大切な時間で読んでいただき、ありがとうございました。
これからもどうぞよろしくお願いします。
コメント